宮本顕治

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宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年明治41年)10月17日 - 2007年平成19年)7月18日)は、日本政治家文芸評論家

戦前の非合法政党時代以来の日本共産党活動家で、第二次共産党の最末期には中央委員として党を指導した。戦後は参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長(第3代)、同党委員長(初代)、日本共産党議長(第2代)を歴任。

略歴[編集]

学生時代〜入党[編集]

山口県現在の光市上島田出身。墓は現在の光市光井にある。

旧制徳山中学校から松山高等学校に進学、社会科学研究会を創立し、文芸誌『白亜紀』を発行するなどの活動をおこなった。

東大在学中の1929年8月、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選し、文壇にデビュー(次席は小林秀雄の『様々なる意匠』)。1931年3月、東京帝国大学経済学部卒業。

1931年5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任。 1932年2月、作家中條百合子と結婚(このときは事実婚状態であった)。 1932年3月から4月にかけてのプロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに、地下活動にはいる。その中で1933年1月、中央アジ・プロ部長に就任。 4月、中央委員候補になり、5月、野呂栄太郎の最高指導者就任に伴い中央委員に昇格。また、野沢徹などの変名をつかって、プロレタリア文学運動の理論問題の論文を発表した(この間の経緯についてはリンチ共産党も参照のこと)。

収監[編集]

1933年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。その間に、警察が逮捕されたほかの人間の取調べから突き止めたアジトを捜索し、床下より小畑達夫の死体を発見した。小畑はスパイであるとして、宮本らに「査問」の最中に暴行を受けた末に死亡したと、裁判では認定された。これがいわゆる日本共産党査問リンチ事件である。宮本は治安維持法違反だけでなく、この事件の加害者としても裁判で裁かれることになる。  逸見重雄は、暴力行為ついて「まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、両手の指の爪を剥ぐ、濃硫酸をかける、全身を殴る、蹴るなどの凄惨な拷問を加え虐殺した。」などと供述した。 1934年12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 同月、百合子との結婚を届け出た。これは、事実婚では面会などに制限が加えられていたので、それを避けるという意味合いもあった。これによって、百合子との往復書簡のやりとりが可能になった。このやりとりを通じて、顕治は百合子に文学や生活についての意見を表明して、弾圧(百合子はこの時期に2度の執筆禁止の時期を経験している)や戦争の時代に、百合子の作家としての出処進退を一貫したものとするために助力した。また、百合子も、顕治に対して公判の維持のための資料の入手や作成に力を注ぎ、獄中での顕治の健康を守り、この時期を生き延びる手助けをした。その点で、この夫婦は、思想的に大きなぶれもなく、戦後の時代を迎えた。

宮本の病気のため裁判の開始は遅れ、1940年に公判が開始された。1944年12月5日東京地方裁判所殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、不法監禁致死、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。

(事件に関する詳細は日本共産党査問リンチ事件を参照)

復権[編集]

1945年10月4日GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。 政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄(袴田も出獄を要求し要出典19日に出獄)。 10月17日、勅令第580号勅令第580号(減刑令)により懲役20年に減刑。 1947年、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が出頭を要求した。5月15日にはGHQ民政局より、日本政府に対して二人の復権を求める覚え書きが発給された。5月29日、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書が発行され、二人の復権が決まった。共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。

上記GHQ指令とそれを受けた司法省の政治犯釈放命令および復権は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法違反とともに監禁致死罪など一般刑法犯でも有罪とされた宮本は本来は対象外であった。そのため、その両者に復権を要求したGHQの手続きが問題となった。これはいわゆる復権問題として、スパイリンチ査問事件の存否とともに、1975年末に『文藝春秋』誌上で連載が開始された立花隆の『日本共産党の研究』で指摘があり、1976年には国会でも取り上げられた。(復権問題。後述)

国際派リーダー〜幹部会委員長へ[編集]

1951年1月21日、百合子が死去(51歳)。没後岩崎書店から刊行された『宮本百合子全集』の解説を書き、それをその後、単行本『宮本百合子の世界』にまとめた。この本は、現在でも百合子研究史上重要な位置を占めるものとされている。また、獄中にいたころの百合子との往復書簡を編集して『十二年の手紙』として刊行した。後に作家の渡辺淳一が、この書簡集を、愛の記録として高く評価している。往復書簡の全体像は、2001年からの『宮本百合子全集』と、2002年に刊行された『宮本顕治獄中からの手紙』(全2巻、ISBN 4-406-02948-6,ISBN 4-406-02949-4)によって明らかにされた。1954年には、『新日本文学』誌上で大西巨人と、野間宏の作品『真空地帯』の評価や新日本文学会の組織問題をめぐって論争するなど、1950年代前半は文芸評論家としての活躍が目立っていた。なお、宮本は百合子の死去後、百合子の秘書大森寿恵子と再婚している。大森はその後、『若き日の宮本百合子』を著している。

1950年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅につながる。1955年3月、中央指導部員に就任。7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命。8月、常任幹部会で責任者に就任。1958年8月、第7回大会1中総で、書記長に選出された。この国際派の勝利により、党史の上では、所感派が分派となる。1970年7月、第11回大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出。

また、この時期には朝鮮労働党と友好関係を結んでいた。1966年ベトナム中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国三国を訪問した(このとき、毛沢東との会談で日中両党関係は決裂した)。翌々年の1968年に北朝鮮を再訪問して金日成と会談し、当時金日成が考えていた武装南進政策にたいして批判をした。1970年代初頭に、金日成の誕生日を祝うという『事業』がおこなわれるころから、両党の関係は冷却し、1983年のラングーン事件において、日本共産党が北朝鮮の犯行であると表明してから関係は断絶した。1987年の大韓航空機爆破事件のとき、宮本は即座に北朝鮮の犯行であると認識したと、萩原遼は回想している。

査問問題の再燃[編集]

1974年6月26日民社党の委員長春日一幸は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、「スパイ査問」事件を取り上げ、「宮本は小畑をリンチで殺した」と主張。選挙の日本共産党批判に使った。日本共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号に掲載された立花隆の連載「日本共産党の研究」において裁判の公判記録が公開された。この記事を発端として、宮本の復権に関する問題と、リンチ事件の詳細が国会でも論議された。(詳細)この影響か、同年の第34回衆議院議員総選挙では、共産党は議席を大きく減らした。

参議院議員[編集]

1977年7月、第11回参議院議員通常選挙で全国区から初当選し、1989年まで2期12年務める。 1982年7月-8月、第16回大会1中総で中央委員会議長に選出された。

晩年[編集]

1990年日本共産党第19回大会では、ルーマニア問題や官僚的党運営を批判する意見が「赤旗評論特集版」に掲載されたが、反対意見の持ち主は党大会代議員に選出されることはなく、「宮本議長の冒頭発言」を含むすべての議案が満場一致で採択された。だが、この大会ではじめて、中央委員・准中央委員選挙の得票数を公表し、宮本顕治の不信任票は14票であり、当選順位は下から6番目であった。

1994年日本共産党第20回大会では、病気欠席し、大会へのメッセージを立木洋中央委員会副議長が代読した。宮本顕治の去就が注目されたが、「余人をもって代えがたい」として引き続き党中央委員に選出され、第1回中央委員会総会でも中央委員会議長・幹部会委員・常任幹部会委員に選出された。

1997年9月、第21回大会で欠席のまま引退し、「名誉議長」に退いた。2000年11月、第22回大会で「名誉役員」に選ばれる(「名誉議長」のポストは廃止された)。

晩年は東京都多摩市の自宅で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。最晩年は体調不良により入退院を繰り返す日々であったが、2007年7月18日午後2時33分、老衰のため東京都渋谷区千駄ヶ谷代々木病院で死去。享年98。

宮本の死去について自民党の元内閣総理大臣中曽根康弘は「戦争が終わってから、いろいろな困難や妨害にも遭遇しながら共産党の骨組みを作り、力を伸ばしていった。国会では野党として自民党内閣に一番厳しい態度を取ってこられた。考え方、政策は違うが、信念を貫いて堂々とおやりになる姿を見て敬意を表していた。私が首相になって間もなく国会で質問を受けたが、かなりよく準備された質問で論理的に攻めてきた。敵ながらあっぱれだと感じていた」と、死者に石を投げない日本的な習いであると見られるが、宮本に対し一定の評価をしたコメントを発表した。

葬儀[編集]

葬儀は近親者による密葬で行われた。喪主は長男の宮本太郎

一方で、死亡年と同じ年の8月6日日本共産党中央委員会幹部会委員長志位和夫を葬儀委員長とする日本共産党党葬が行われ、衆議院議長河野洋平自由民主党幹事長中川秀直民主党幹事長鳩山由紀夫らを含む1200人が参列した。

人物像・その他[編集]

  • 現在の日本共産党幹部会委員長志位和夫は宮本の家族の家庭教師であった。その教え子は長男・宮本太郎である。
  • 政治以外の話題としては「ポルノ番組批判」をしたことが挙げられる。1975年、「11PM」(日本テレビ系列)「独占!男の時間」(東京12チャンネル)に代表される女性の裸体を売りにした番組が多いという現状に憤り「今の商業テレビ界には女性を軽視した番組、ポルノ番組が満ち溢れている」と批判した。この発言をきっかけに「ポルノ番組追放キャンペーン」が展開された。
  • 引退劇の詳細については、離党した筆坂秀世が、著書で自身の見解を明らかにしているが、名前を出された不破哲三は、筆坂の見解は妄想に類するものだと反論している。
  • 2007年7月20日付けの日本共産党中央委員会の機関紙『しんぶん赤旗』における宮本の死についての記事は新潟県中越沖地震に於ける党活動に関する記事に次いで一面二次扱いであった。この事について赤旗編集部は「意図的に出来事を小さく書いたつもりは無い」とコメントしている。
  • 自宅盗聴事件で犬猿の仲と見られた創価学会であるが、宮本の死に対し、同会の池田大作弔電を送っており、その件は『しんぶん赤旗』でも事実のみを報じた。
  • 1970年代には、自宅の電話が創価学会の学生幹部により盗聴されるという事件が起こっている。1980年には創価学会の元顧問弁護士であった山崎正友が、自らと創価学会幹部数人が盗聴したと、週刊誌に発表した。同年、宮本は民事訴訟を起こし、創価学会に損害賠償を求めた。東京高裁で創価学会に賠償を命ずる判決が下り、判決が確定した。判決では創価学会幹部の関与が認定されている(宮本顕治宅盗聴事件)。
  • SF作家小松左京の代表作の一つ『日本沈没』の中で、危機に直面した内閣総理大臣が「自らが行わなければならない決断を代行できるかもしれない人物」として、宮本をモデルにしていると思われる政治家に一瞬想いを馳せる(がすぐに諦める)という件がある。

著書[編集]

文学関係[編集]

  • 『レーニン主義文學鬪爭への道 : 宮本顯治評論集』木星社書院、1933年3月
  • 『文藝評論』中條百合子編、六藝社、1937年2月
  • 『敗北の文學』岩崎書店、1946年6月
  • 『宮本百合子の世界』新日本新書、1975年

以上などをまとめて、集大成したものとして、

政治関係[編集]

  • 『日本革命の展望』新日本新書、1967年
  • 『日本共産党の立場』新日本文庫、1990年

関連文献[編集]

批判的な立場のもの[編集]

関連項目[編集]

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